「エクスペクト・パトローナム」は何を呼んでいるのか 守護霊の呪文と霊崇拝の歴史
幸福な記憶とキリスト教
ここまでで守護霊の呪文そのもののルーツについては妥当な説を導き出すことができたが、まだ現在の「幸せな記憶によって呼び出される守護霊」という形になっていない。
もう一度ラクジディアンの例を確認してみよう。彼は闇の魔術師であり、守護霊の呪文で蛆虫を呼び出し、そしてその蛆虫に食われて死んだ。この蛆虫を荒ぶる自然霊と解釈するのなら、そのような自然霊を呼び出さないようにするセーフティーが必要だ。
そこで、幸せな記憶を導線とするという解決策が発見されたのではないだろうか。
そもそも、「守護霊」というからには本来であれば危機的状況から術者を救うために呼ばれるべきであり、そうであるならばきっかけとなる感情は恐怖や危機感であるはずだ。しかし、実際には幸せな記憶を強く思ったときに守護霊は招来されている。
この、「幸せな記憶を強く思ったときに守護霊が招来される」という機序はもしかすると正確な説明ではないのかもしれない。つまり、こうだ。「幸せな記憶は守護霊の呪文に必須ではないが、幸せな記憶を強く思ったときにのみ守護霊と呼べるような存在が将来される」と説明すべきなのではないか。
キリスト教の流入によって守護霊にpaterの語が当てられ、単なる自然霊ではなく父祖であり神である霊が呼ばれるようになると、呪文は次第に善良で神聖な霊を招来するものへと性質を変えていった。荒ぶる自然霊が救い主の神として招来されるわけにはいかないからだ。
やがて1692年に施行された国際魔法使い機密保持法でマグル界と魔法界が断絶し、魔法界におけるキリスト教の影響が強くなかったこともあって、守護霊の呪文の文脈から神聖性は失われ、「プラスのエネルギー」として扱われるようになったのではないか。
ブリテン島におけるPaterの受容
こうして守護霊の呪文が現在の姿になるまでの流れを描くことができた。これらはあくまで原作をもとにした考察だが、私個人としてはかなり納得のいく議論ができたと思っている。
しかし、もしかするとある一点に関して説明が不十分だったかもしれない。キリスト教ラテン語としてのpaterがブリテン島にどのように受容されたかという点である。これに関して最後に実例を交えて論じることで、この議論をしめさせてもらおう。
古代ローマとブリテン島の接触は度々生じていたが、征服によって明確にローマ文化がブリテン島に定着したのは紀元前1世紀、クラウディウス帝のもと行われたブリタニア侵攻と、それに端を発する属州としての支配だった。支配は4世紀に渡って続いた4。
属州としてのブリタニアは完全にラテン化されたわけではなかったが、それでも4世紀をともに過ごせばケルト人たちにもラテン語は定着していった。
しかし、そのラテン語はあくまでローマの公用語としてのラテン語であって、そこにキリスト教の用語は含まれなかった。コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認する313年まで、ローマ内においてキリスト教は迫害されていたのだから。
では、布教されるまでブリテン島のケルト人がキリスト教を知らなかったかというと、実はそんなことはない。迫害から逃れた隠れキリシタンがブリテン島に集い、秘密の祈祷所を有していたという説がある。
3世紀の末ごろ、つまり公認される直前で盛んに迫害が行われていた時代に、ブリテン島で建てられた家屋の壁に奇妙なラテン語が刻まれているのが発見された。
それは暗号になっており、普通に読むと「種を蒔く人は鋤車を注意深く動かす」という警句なのだが、並び替えると「我らが父 (Pater Noster)」という祈りの言葉で組まれた十字になる。このことから、3世紀末にはブリテン島で隠れキリシタンの組織があったとする説がある5。
もちろん、隠れキリシタンが祈りの言葉を唱えるのを耳にしたケルト人もいたことだろう。しかし、彼らにとってこの祈りはさほど不自然ではない。なぜならば彼らもまた、父祖の霊に祈る者だからだ。
補論・なぜ闇の魔術師は守護霊の呪文を使えないか
もうひとつ謎が残っている。なぜ闇の魔術師には守護霊の呪文を使えないかだ。
これについては守護霊の呪文そのものというより、魔法界全体の思想的な傾向が影響しているのではないかと私は考えている。たとえばそれは、トム・リドルが一貫して愛の魔法を認めなかったり、反対にダンブルドアが闇の魔術を劣ったものと見ていたような、分野ごとの偏向である。
リドルは愛の魔法を認めず、見下していたが、魔法界には確かに愛がなければ行使できない魔法があり、ハリーの母リリーが用いたそれは全盛期の彼を一度打ち負かす程度には強力だった。一方、ダンブルドアは闇の魔術を劣ったものとしていたが、闇の魔術の被害は死傷者を数えるまでもなく甚大だ。
幸せな記憶を導線としないと使えない魔術というのは、分類としてはおそらく愛の魔法に近い。そのような魔法を見下して使わない者が闇の魔術師になるのではないか。だから修練を積まないし、幸せな記憶という導線を信じようともしない。
この説明は、アンブリッジやスネイプのような善人ではない魔術師が守護霊の呪文を使えたこととも辻褄が合う。彼らが自らの偏向に囚われることなく守護霊の呪文の価値を認め、正しい唱え方の修練を積んでいたから、正しく守護霊を招来することができたのだろう。
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